夏侯惇の眼は現代ならば助かるのか?【三国志を医学の視点で考察】

隻眼の猛将、夏侯惇(かこうとん)は現代でも広く親しまれる三国志の登場人物です。気性の荒い勇将であるとともに、戦闘で左眼を失った後にも活躍したことで知られます。
今回のコラムでは夏侯惇の生涯を振り返り、眼の受傷状況について確認します。そして現代医学の視点から、受傷後の適切な処置や、視力を維持することは可能だったのかどうかを考察してみます。
1. 夏侯惇の生涯
夏侯惇は2世紀の中頃、中国の後漢末期に生まれました。後に魏王朝を建国した曹操(そうそう)の従兄弟であり、曹操の挙兵時から側近として付き従っています。14歳の時には、慕っていた師を侮辱したという理由で激昂して人殺しを働くなど、荒々しい性格でした。
実は文官肌?
激動の時代の中、各地を駆け回り董卓(とうたく)、呂布(りょふ)、袁紹(えんしょう)、劉備(りゅうび)、孫権(そんけん)など多くの実力者との争いに参戦しました。現代では猛将のイメージが強い夏侯惇ですが、遠征先の陣中にも師を迎えて学問に励むなど知勇兼備の武将であったようです。また政治においても有能で、治水や屯田で功を挙げたという記録もあります。
意外と敗戦が多い
このように多くの文官的なエピソードがありますが、戦の面ではどうでしょう。呂布の計略にかかり捕虜になったところを部下の韓浩(かんこう)に救出されたこともあります。また、劉備を追撃した博望坡(はくぼうは)の戦いでは、副将の李典(りてん)が諌めるのを無視して伏兵に遭いました。こうしたエピソードも考えると、猛将・戦上手という現代のイメージだけでは説明しにくいところもあるかもしれません。
最期は魏の大将軍となり、延康元年(西暦220年)に曹操の死後まもなく亡くなりました。死後も魏の功臣として祀られ、現代でも多くの人に親しまれています。
2. 眼の受傷状況
さて、今回の本題である左眼の負傷についてです。これは呂布討伐の際に流れ矢が当たって受傷したものと記録が残っています。
後世の創作小説「三国志演義」では、呂布配下の曹性(そうせい)が矢を放ったとされています。このとき夏侯惇は矢を眼球もろとも引き抜き、
「親から受け継いだ身体の一部を捨てられるか !!」
と言ってこれを喰らい、曹性を討ち取っています。なお史実での曹性は呂布配下「八健将」に挙げられる名将ですが、夏侯惇との戦闘を含め史実にはあまり記載が残っていません。
3. 眼の外傷の適切な処置は?
では、現代の医療であればこのような夏侯惇の眼を治療することは可能でしょうか?
三国志演義の場合
残念ながら三国志演義に記述されているように、完全に矢が眼を貫通してしまっているような状況で視力を温存することは困難です。引き抜いて目玉を食べてしまっては、なおさら治療が難しくなります。これほどの怪我ではむしろ頭蓋骨に骨折がないか、脳の損傷がないか等が心配されます。
なお、人工眼球・人工
正史三国志の場合
一方で、史実では流れ矢が原因で
このような場合、現代の医療であれば清潔な水で十分な洗浄をして縫合したり、細かな異物を除去したり、抗菌薬を用いたりすることで、視力を温存できる可能性も十分にありそうです。眼球が破れるという大変な事態でも現代の医療であれば、程度によっては視力を維持することが望めます。
専門的には「眼外傷スコア(Ocular Trauma Score)」などの、視力回復の予測指標が使われることもあります(Ophthalmol Clin N Am 15(2002) 163-165.)。こうしたスコアでは、医療機関初診時の視力、眼球破裂の有無、感染
4. おわりに
後漢・三国時代に生きた隻眼の猛将:夏侯惇の眼外傷について簡単な考察を行いました。眼球や眼の周囲のケガは失明につながる危険があり、早期の受診が求められます。創部や異物そのものは肉眼では分かりにくいこともあるため、ケガをして眼に強い痛みや充血があるようなときは速やかに医療機関を受診してください。
執筆者
魏志「諸夏侯曹伝」、魏志「夏侯惇伝」
※本ページの記事は、医療・医学に関する理解・知識を深めるためのものであり、特定の治療法・医学的見解を支持・推奨するものではありません。